Javaが僕にくれたもの

この記事はJava Advent Calendar 2016の3日目です。2日目はmegascusさんのどこからも使用されてないクラスを列挙する、4日目はcero_tさんです。

退職しました

個人的な話で恐縮ですが、去る11月末をもって学生バイト時代も含めて12年間勤めた会社を退職しました。そこではずっとJavaを書いていましたが、次の勤務先ではPythonを書くので、今後Javaを書くことは少なくなるでしょう。

退職エントリは書きませんが、代わりに言語の卒業エントリを書こうと思います。一人よがりなネタですがお許し下さい。

初めての出会いはJDK 1.1をダイアルアップでダウンロードしたこと

正確な時期は忘れましたが、1997-8年頃ではなかったかと思います。「Javaという言語がすごいらしい」という噂をきいて、ダイヤルアップ回線で頑張って一晩くらいかけてダウンロードしてみました。その時落としたのはJDK 1.1ではないかと思います。

しかし、当時使っていたPentium 90MHzのマシンではサンプルアプレットのローディングに数分かかり、クリックの応答に数十秒かかるという状況でした。(「Java遅い!」をリアルで体験した世代です)

初めてまともに使ったのは、i-appliの開発

時は流れて、2001年1月「NTTドコモの新機種F-503i, P-503iが、Javaに対応して誰でもアプリが作れるようになった!」というニュースが入ってきました。この時高校生だったのですが

「これはやばい!ケータイがPCになってしまう!」

とか言って、親に土下座して買ってもらいました。

Javaといっても、CLDC(Connected Limited Device Configuration) 1.0という仕様の上に作られたJavaであって、「浮動小数が使えない」などの制限があり、しかもアプリ(すなわちjarファイル一個)のサイズは10KB以下に収めなければなりません。そこではclassファイルを増やすと容量がかさむから「クラスは一個にしましょう」と言われていました。Eclipseはまだなくて、JBuilderは僕のPCでは重いから、[CPad for Java] (http://hp.vector.co.jp/authors/VA017148/pages/cpad.html) というテキストエディタにコンパイラショートカットがくっついたようなエディタで頑張ってコーディングしていました。これと、コードの変数名を1文字にして容量を削る今で言うminifyツールみたいなのも使っていました。

その時作った作品はgistに貼ってあります高校の先輩がVBで作ったゲームを移植したものです。当時は雑誌の端に載ったりしました。

大学に入ってJavaらしくないJavaを学ぶ

2003年に大学生になったのですが、当時入った学科では、プログラミング教育にJavaを使っているということで、楽しみにしていました。ところが、そこで習ったJavaと言うのは

「配列をReturnする『関数』を作ってはいけない」
「まず配列を作ってメモリを確保しろ、その配列を関数のパラメータに突っ込め!」

みたいなやつでした。。。\(^o^)/

本当のJavaを求めてある本に出会う

そんな時に出会った本がこれでした。

今思うと現場思考で、非常にバランスの良い本だったと思います。

これで、少しはクラスとかデザインパターンというものを知った僕が、少しはプロセッサーパワーがましになった当時の携帯向けに作り直したのが[これ] (https://github.com/susumuishigami/bunshi2) です。

最近このコードをほぼそのままコピペして環境に依存する部分だけ書き換えてみたら、あっさりAndroidで動いてしまいました!

仕事でサーバーサイドJavaの世界へ

大学2年生の時から、プログラミングのバイトを初めます。従業員10人くらいのこじんまりとした会社でした。

始めて突っ込まれた案件は、Atg Dynamoというフレームワークを使っていました。すごい重量級フレームワークでした。二度と使いたくありません。

自社開発の仕事にアサインされる

その案件が終わってからは、ほぼ一貫して自社開発の製品の新規開発・カスタマイズをやっていました。そこで使っていた自社フレームワークはシンプルで使いやすかったですが、データは全部文字列で扱う流儀で、HashMapみたいなデータ構造に

set(“LAST_NAME”, “hogehoge”);
set(“FIRST_NAME”, “hugahuga”);

みたいなコーディングスタイルでした。。。まさか、このフレームワークをその後10年使い続けるとは思わなかった\(^o^)/

システムのリニューアルを任され、自由に学べる期間があった

ベンチャー企業というのは、何が正しいかよりも目の前の問題を最短で解決するのが良いとされることがあるので、その場限りの仕事を数年続けました。

転機は2008年の暮れ、主力システムをリニューアルする任務を与えられ、自由にやっていいと言われました。そこで、当時のトレンドだったWicket、Seasar、Spring、Google Guiceなどを全力で追いかけてみました。

本当はこの時社内標準フレームワークを刷新したかったのですが、工数を考えると既存資産を活かすことがどうしても必要だったので、従来の自社フレームワークに僕がOSSから学んだエッセンスを加えるという方針にしました。そのため、「フレームワークの使い方」より、フレームワーク自体のソースコードを読むようになり、特に、Seasar2のソースコードは読みやすくて勉強になりました。(Apacheライセンスなので流用もしやすく助かりました!)

結局、テンプレートエンジンとしてMayaaだけ採用しましたが、たまたまその後作ったサービスが成長したため、最もMayaaを使い倒している人みたいになってしまいました。

エンジニアとしての目標: 30までに勉強会で登壇する

僕は家庭の事情もあって、2009年ごろまで、IT系勉強会というものに参加したことがありませんでしたが、このまま無名のエンジニアではいたくないと思い、「30歳までに勉強会で登壇する」ことを目標としていました。

結果的には、
2012年と、2013年のJJUG CCC当時、28, 29の時に実現できたので、目標は達成したことになります。

Season Conferenceは2010を最後にしばらく開催されませんでしたが、もし、2011年に開催されていたら、この、2013年のネタはその時できたと思います。

最後のSeasar Committerになる

そして、久しぶりに開催された2015年のSeasar Conferenceが開催されこんなLTをし、

その後、初めてMayaa初代メインコミッターの栗原さん、現メインコミッターの須賀さんに出会うことができ、そのまま流れで僕もコミッターにしていただきました。そしてどうなったかはこのスライドのとおりです。

コミッターになってからした仕事はMayaa Advent Calendar 2015を書いたことくらいです。コミットしてないです。(今後必要があったら、コミットすることもあるかもしれません。コミッターになる前はバグ報告をしてパッチを送ったり、GitHubになってからは、PullRequestを送ったことがあります)

振り返って、Javaと僕の付き合いは何だったのか

僕はJavaで12年仕事のコードを書いてきましたが、今の今まで、J2EE、Java EEのような世界は、Servlet/JSPくらいしか経験がありません。EJBも書いたことがありませんし、JPAも使わず生のJDBCに独自ラッパーをかぶせてなんとかしました。SpringやSeasarContainerも業務で使ったことはありません。

勉強して、こういうの良いなと思ったら、ポイントポイントでどんどん取り入れていきました。アプリケーション・サーバーは、Tomcatくらいしか使っていません。そのため、本来であればアプリケーションサーバーが提供してくれるような機能も自作しました。

こういうところは、このあたり、一般的なJavaプログラマーとは違うかもしれません。

それならいっそ、PHPを使えば良いんじゃないかと言えますが、静的型付け言語であるJavaのIDEの実力・Eclipseにはお世話になりました。サービス開発初期は何が正解なのか分からず、動かしながら抜本的に作り直すなんてこともあります。その時、呼び出し階層・型階層の機能がなければつらいかった。

ただ、中盤以降はIDEに頼り切るスタイルが仇となって、どんどん重たくなって苦しくなりました。

持論ですが、ある程度大規模になると、場当たり的な設計をやめ、モノリシックをやめ、きちんと設計して、適度にマイクロサービスみたいにモジュール分割するのが正解だと思います。そして、各マイクロサービスは、JavaよりもLLの方が書きやすいと思っています。

Javaプログラマーから見たPython

新天地ではPythonistaになります。まだ一ヶ月くらいしか触っていませんが、Pythonは非常にとっつきやすい言語だと思いました。同じことができるフレームワークやライブラリが乱立せず、体系的に整っているように見えます。

お陰で非常に入門しやすく、何かをするにあたって迷ったりはまったりすることが極端に少ない言語だと思いました。

Javaは僕の育ての親

しかしJavaはSeasar Project等、日本発のJavaのOSSという教材に恵まれているために、質の良いコードを読ませてもらって学習させてもらえたことはかけがえのない経験だったと思います。

初めて触ったプログラミング言語はObject Pascal(Delphi2.0)ですが、業務で実用的に使い、多くの先人の知恵を学ばせてもらった、僕の育ての親はJavaであることは間違いありません。

これからはEclipseを起動することも少なくなると思います。そのうちショートカットも忘れてしまうかもしれません。それでも、僕のプログラミング哲学に影響を与えたのは、Javaであり、とりわけ、Seasar Project関係のOSSのそれぞれの開発者の方々の知恵を借りてこれからも頑張っていきたいと思います。

番外編 java-ja について

僕にとって java-ja は発足当時から憧れのコミュニティでしたが、家庭の事情でイベントに参加することは今まで一回もできませんでした。この記事が公開される12/3には java-ja 忘年会があって、実は java-ja のイベント初参加です。


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